商学研究第49巻第2号 論文 要旨 アフリカ経済の構造と開発政策 岩城剛 日次 1 .アフリカ社会経済の植民地構造~その二重構造の形成 II. 植民地支配を通ずる統治体制は、アフリカ原住民自体の健全な統治システムの発展を阻害してきました。 (独立後の苦難) アフリカは、1957年のガーナの独立を初めとし、アフリカの年と言われる1960年には一挙に17ヶ国が独立を達成した。 中国企業は労働力を搾取し、資源を奪うという単純な理由のために、アフリカに進出している。アフリカが持つ全ての価値を搾り取り、アフリカをもう一つの中国大陸に変えようとしている。重商主義の時代に欧州からの入植者たちが行ったことと、同じことをしてい 卑弥呼とはどんな人?生涯・年表まとめ【邪馬台国の場所や功績、まつわる謎や死因も紹介】, フローレンス・ナイチンゲールとは何をした人?生涯・功績まとめ【年表や名言、エピソードも紹介】, 英雄ナポレオンとはどんな人?生涯・年表まとめ【フランス革命の活躍や功績、名言や死因まで紹介】. アフリカは現在でも世界のなかで貧しい地域として知られています。この原因の1つになったのが、18世紀から20世紀初頭にかけて行われたヨーロッパ諸国によるアフリカの植民地分割でした。当時は領土を広げることで強大な国家を作ろうとする帝国主義の全盛期で、アフリカはその標的にされたのです。, 1884年のベルリン会議でアフリカ植民地の獲得ルールが決まるとアフリカ分割はさらに過熱していき、最終的にはたった2か国を残して広いアフリカ大陸のすべてが植民地になりました。列強による植民地化は、アフリカの発展を妨げ、第二次大戦後、アフリカの国々が独立した後も紛争や貧困の原因となって現代の世界や国際情勢にも影響を与えています。, アフリカ植民地はなぜ始まり、どうやって進められ、どのような影響を残しているのでしょうか。この記事では、アフリカ植民地とはどのようなものだったのか、現代へどのような影響を与えているかを解説していきます。, アフリカ植民地とは、18世紀後半から第一次大戦前にかけて、ヨーロッパ諸国が帝国主義のもとアフリカ諸国を植民地にしていったものです。アフリカは産業革命後の工業化を進める欧州諸国にとって、豊富な資源供給先となり、アフリカの植民地化は次第に加熱していきました。, 列強によるアフリカ分割は1912年に完了し、エチオピアとリベリアを除くアフリカ全土が、イギリス・フランス・ドイツ・イタリア・ベルギー・ポルトガル・スペインのたった7カ国によって支配されるようになります。, アフリカ諸国は第二次大戦後に独立していくことになりますが、ヨーロッパによる植民地化は現代のアフリカにも大きな影響を与えています。, ヨーロッパによるアフリカの植民地化は、アフリカのもつ豊富な資源を目的にはじまりました。産業革命以降、工業化を進めるヨーロッパ諸国は、資源の供給地として魅力をもつアフリカの植民地化を進めていきました。ヨーロッパのアフリカ進出は15世紀から行われていましたが、当時の目的は主に奴隷を得ることで、進出地域も沿岸部に限られていました。, 18世紀後半からアフリカの人々にも人権を認めようとする考えが広まり、産業革命による工業化が進んだこともあって、奴隷貿易は廃止されていきます。一方、工業化のため資源を求めるヨーロッパ諸国は、資源や農作物の供給地、そして工業製品を売るための市場としてアフリカを必要とするようになります。, ヨーロッパにはアフリカを遅れた国々とみなす風潮がありました。未開のアフリカに優れた文化や政治制度を与えて文明化するのは進んだヨーロッパ人の使命と考えられ、アフリカの植民地化を正当化する思想になりました。, 列強によるアフリカの植民地化はアフリカの国家と社会に現代まで続く様々な悪影響を及ぼしました。ヨーロッパの国々が勝手に決めた国境線は民族や部族の境界線を無視したもので、現代の紛争や内戦の一因になっています。, アフリカ人はヨーロッパ人の都合によって住む場所を移動させられたり、強制労働に就かされたりして、劣悪な環境で亡くなる人も大勢いました。さらに、未開人の文明化を謳って文化や言語を強制したため、アフリカ独自の文化は破壊され、現在も多くの国では旧宗主国の言語が公用語になっています。, 現在でも企業の進出や財政的援助によって先進国が発展途上国であるアフリカ諸国に影響力を及ぼそうとすることがあり、新植民地主義と呼ばれています。貧しいアフリカ諸国には旧宗主国に莫大な借金を抱えている国も存在し、分かっていてもこうした援助に頼らなければならないのが実情です。, 1884年から開催された18カ国による国際会議であるベルリン会議(ベルリン・コンゴ会議)では、ヨーロッパ諸国によるアフリカ植民地化のルール作りが行われ、列強同士で植民地分割の原則が確認されました。, この会議では、ある地域を最初に占領した国がその地域を領有できる優先権が認められました。そして、新たにアフリカに植民地を獲得する場合には、他国の利益を侵害しないこと、ヨーロッパ人の通商・航行の自由を認めることなどの条件が定められました。, この原則ができたことで、アフリカ植民地化は早い者勝ちになったため、ヨーロッパ列強によるアフリカ分割は加速することとなり、第一次大戦までにエチオピアとリベリアを除くすべての国が植民地になりました。, ヨーロッパ諸国による初期のアフリカ進出は、リヴィングストンやスタンリーといった探検家によって行われたものです。彼らの目的はキリスト教の布教や現地の人々との貿易でしたが、それまで北アフリカや沿岸部だけで活動していたヨーロッパ人のアフリカ奥地への進出は、結果としてアフリカ植民地化のきっかけを作ることになりました。, 内陸部に豊富な資源が眠る可能性があると分かったことで、アフリカはヨーロッパ諸国の注目を集めるようになります。エジプト、南アフリカへ進出していたイギリス、北アフリカへの進出を開始していたフランスを中心に、沿岸部から内陸部へと植民地化されていきました。, ヨーロッパによるアフリカの植民地化に火をつけたのが、ベルギーのレオポルド2世によるコンゴの領有化を巡って実施されたベルリン会議でした。レオポルド2世は、象牙や金、ダイヤモンドなど豊富な資源がある上に、アフリカの中央にあるため他の国がまだ進出していなかったコンゴに目をつけ、コンゴ自由国として領有化します。, これにポルトガルが反発し、列強同士の対立が起こりました。この問題を解決するため、ドイツの宰相ビスマルクの提案で、ベルリン・コンゴ会議(ベルリン・西アフリカ会議)が開かれ、アフリカでの植民地獲得のルールが明確化されました。ベルリン会議以降、列強のアフリカ進出は過熱していき、アフリカの植民地化は急速に進んでいきました。, ヨーロッパによる植民地化は、アフリカ諸国では様々な反乱や抵抗運動につながっています。列強の中には現地人から強制的に土地を奪ったり、強制労働をさせたり、過酷な統治を行う国もあったため、アフリカ現地人の反発を招くことになりました。, これらの反乱は最終的には圧倒的な軍事力をもつヨーロッパ諸国によって鎮圧され、アフリカの人々には多数の犠牲者を出すことになりました。, 1898年のファショダ事件は、アフリカ植民地化を巡る対立からイギリスとフランスの軍事衝突に発展しかけた事件です。イギリスはアフリカのカイロ、ケープタウンとインドのカルカッタを結ぶ3C政策の一環としてカイロからケープタウンをつなぐ大陸縦断政策を進めていました。一方フランスは、北アフリカ西部から東へ向かって領土を広げる大陸横断政策を推進していました。, この2つの戦略がナイル川岸にあるスーダンのファショダ付近でぶつかったのがファショダ事件です。この事件でアフリカ分割を巡る英仏の対立は最高潮に達しますが、どちらも海外での勢力拡大を目指すドイツに対する警戒心をもっていたため、最終的に両国は歩み寄りと妥協を行いました。1904年に英仏協商が締結されて英仏はお互いの植民地支配を認め合い、アフリカにおける英仏の対立は終わりました。, 1912年にイタリアがリビアを植民地化したことにより、列強によるアフリカ分割は完了しました。アフリカは独立国であるエチオピアとリベリアを除いたすべての地域がヨーロッパの7カ国によって支配されることになります。, しかし、列強のアフリカへの野心はこれで終わることはなく、イタリアはさらにエチオピア獲得を狙って1935年にエチオピア戦争を起こしています。, アフリカで本格的な独立運動が起きるのは第二次大戦後になります。1945年にマンチェスターで開かれた、アフリカの解放を訴えるパン・アフリカ会議には、アフリカの独立運動家らが数多く参加し、独立運動が高まりをみせます。, 1951年のリビア独立を筆頭に、アフリカ諸国の独立がはじまりました。1960年には17カ国が独立を果たし、「アフリカの年」と呼ばれました。しかし、1954年のアルジェリア戦争のように支配国との間で独立戦争が勃発することもあり、他にもアンゴラやモザンビークなどが武力により独立を獲得しています。, 独立は果たされましたが、アフリカの植民地化はアフリカ諸国の近代化を大きく妨げることになり、内戦や紛争を生む一因にもなって現代のアフリカにも大きな爪跡を残しています。, アフリカ植民地はそのほとんどが、早くからアフリカへの進出を開始したイギリスとフランスの植民地になっています。イギリスは3C政策を実現するため大陸縦断政策をとり、フランスは最初に植民地化したアルジェリアから北アフリカを西に向かって進む大陸横断政策をとっていたため両国の競争は激化し、ファショダ事件で対立が頂点に達しました。イギリスやフランスの植民地は面積も広く、植民地同士が隣り合ったりつながっていることが多いのが特徴です。, 一方、後発で植民地獲得に乗り出したドイツやイタリアは英仏がまだ植民地化していない場所を狙うしかなかったため、植民地の位置もバラバラで経済的にもほとんど利益をもたらしませんでした。第一次大戦での敗北後、ドイツのアフリカ植民地は没収され、他の列強によって分割統治されることになりました。, 【イギリス】エジプト・南アフリカ・スーダン・オレンジ自由国・トランスヴァール・ローデシア・ゴールドコースト・ナイジェリア, 第一次大戦勃発前までに、アフリカのほとんどの国はヨーロッパの植民地になっていましたが、エチオピア帝国とリベリア共和国の2国だけは、アフリカ大陸で最後までヨーロッパの植民地になることがありませんでした。, 現存する世界最古の独立国の1つとされるエチオピアは、皇帝メナリク2世のもと、列強同士の対立を利用するなど、うまく立ち回って独立を守りました。1896年のアドワの戦いでは侵攻してきたイタリアを破っており、アフリカの黒人国家がヨーロッパに勝利した画期的な出来事とされました。, ただ、1936年から41年にかけてのみ、エチオピアはムッソリーニのファシスト・イタリア王国によって占領されています。もう1つのリベリアが実質的にはアメリカの保護国だったため、アフリカで真に独立を守りきった国はエチオピアだけといえます。, 西アフリカにあるリベリアは、1847年にアメリカで解放された黒人奴隷の国で、エチオピアと並んでアフリカの中で独立を守り抜いた国です。, リベリアは強制的に連れてこられたアメリカの奴隷たちを祖国へと帰還させ、アフリカに彼らの国を作ろうとしたアメリカ植民教会の運動によって建国されました。アメリカの後ろ盾があったリベリアは、他の国の侵略を受けることもなく、現在のアフリカでエチオピアの次に古い国になっています。, 人類の誕生から現代までを解説したアフリカ史の入門書で、アフリカの歴史を現在の国境にこだわることなく地域ごとにまとめています。各章はその分野の専門家によって書かれており、アフリカの歴史では避けて通ることのできないヨーロッパによる侵略と植民地支配の歴史も詳しく書かれています。日本人にはあまり馴染みのないアフリカ史を分かりやすく学ぶことのできるおすすめの1冊です。, アフリカ諸国が独立を果たした現在では、アフリカ植民地は遠い過去の出来事にも思えます。ですが、アフリカ諸国の貧困や紛争など、アフリカ植民地の爪跡は現代の世界にも大きな影響を与えているといえます。, ヨーロッパの国のなかには、今でもかつての植民地に大きな影響力をもっている国もあり、アフリカ植民地の歴史を理解することで、現代の国際社会に対しても理解が深まるのではないでしょうか。. アフリカ分割から始まったヨーロッパによるアフリカの植民地化は、アフリカの発展や開発へ大きな影響を与えました。 植民地化により、政治、経済、文化面で多大な影響を受け、金、ダイヤモンド、天然ゴムなどの天然資源が減少した結果、 アフリカは政治的、そして社会的にも荒廃していき … ヨーロッパ勢が植民地を拡大したのは、資源を獲得するという目的もありましたが、もう一つ当時は国威発揚、国の近代化を誇示することに繋がっていたという時勢的な理由もあります。 【ホンシェルジュ】 19世紀後半から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパ列強による「アフリカ分割」がおこなわれました。どのような背景があったのでしょうか。この記事では、分割がおこなわれた理由や各国の紛争、影響などをわかりやすく解説していきます。 アフリカには原住民がいたのに、他人の都合で植民地にされた挙句争いの場として使われたのですから、迷惑な話ですね。 さすがに、ヨーロッパ列強の間でも「このままでは混乱は終わらないから、領土を決めよう」ということになりました。 アフリカの国々の国境に直線が多いのは,緯線や経線を国境にしているからです。これには,列強国の植民地とされてきたアフリカの歴史が関係しています。 国境の決まり方は,おもに2種類あります。 1つは,山や川,湖などの自然の地形を利用したもの。 アフリカは産業革命後の工業化を進める欧州諸国にとって、豊富な資源供給先となり、アフリカの植民地化は次第に加熱していきました。. アフリカには、子供に基本的な教育すら受けさせる余裕のない家庭が多く存在します。 子供の基礎教育を政府プロジェクトに掲げている地域もあるにもかかわらず、多くの地域で学校が不足しており、また学校があっても家から遠く、さらに家庭が貧しいために幼い子供たちが家の仕事に従事させられていたりと、教育の機会が奪われてしまっているのです。 結果、アフリカ諸国のなかには識字率が非常に低い国や、基礎的な教育や知識が足りないために、単純労働以下の仕事しか得られず、貧困が貧困を呼 … 近代の歴史を振り返ると、世界の多くの国が列強によって植民地にされた経験を持っている。アフリカやアジアではほとんどの国が植民地となったが、日本はこれまで植民地にな…(2020年12月17日 9時12分46秒) 実はアフリカの国々はほぼ全てがヨーロッパの国の植民地となった歴史があります。 その中で、植民地支配されずに済んだ国と言われるのが、 エチオピア、南アフリカ、リベリアの3カ国です。 アフリカが植民地にされたのって随分前だけど、エチオピアだけは1940年くらいまで独立を保ってたといいます。何故でしょう?一言でいえば、僻地だからです。意外に思われるかもしれませんが、スエズ運河が開通するまではヨーロッパからも アフリカ分割. 近代の歴史を振り返ると、世界の多くの国が列強によって植民地にされた経験を持っている。アフリカやアジアではほとんどの国が植民地となったが、日本はこれまで植民地になったことはない。中国メディアの快資訊は… 独立後の自立化政策 (self-reliancepolicy) 1 現地化政策(indigenization) 2. リベリアが建国された頃はアフリカ大陸のうち西欧列強の植民地になっていた地域は全体の1割程度であったのだが、時代が進んで1880年代に入ると列強によるアフリカ植民地化競争が激化してきた。 アフリカ諸国の独立/アフリカの年/1960年. 脱植民地化(だつしょくみんちか、英語:Decolonization)とは、植民地が宗主国からの独立を獲得する過程であり、植民地化に対立する概念である。 非植民地化ともいう。. 世界地図でアフリカ大陸を見てみると直線的な国境が多く見受けられます。どれもこれも第一次世界大戦前までのヨーロッパ各国による 植民地支配の名残で、これが現在でもアフリカ各国で起きている民族紛争や政治情勢の不安定化に繋がっています。 アフリカ史を勉強する上で、避けては通れないのが植民地支配の歴史です。. アフリカの国旗に緑・黄・赤が多い理由 現在のアフリカ大陸の国々の国旗には緑・黄・赤が使われたものが多く、その国の数は約20ヵ国に上る。 この三色にはアフリカの植民地の歴史と深い関 … アフリカはヨーロッパの南に位置し、大陸中央には赤道が通っており熱帯や乾燥帯の地域が広がっています。 その気候のため熱帯雨林で高温多湿な地域がギニア湾岸からコンゴ盆地にかけて広がっています。また、北はサハラ、南はカラハリ砂漠が広がっており特徴的な土地です。 面積はおよそ3026万k㎡であり、この中には島国を合わせ54もの国(国連加盟国)が存在しています。 国々の人口を合わせるとアフリカだけで9.5億人(20… アフリカは歴史に翻弄されてきました。 20世紀半ばまでのヨーロッパの植民地支配から独立戦争。その後の政治的混乱。紛争や内戦。インフラの整備もままならない国がたくさんありました。学校教育の機会が奪われた国や地域もありました。 19世紀後半、植民地拡大の為ヨーロッパ列強(スペイン,イタリア,フランス,イギリス,ドイツ,ポルトガル,ベルギー)はこぞってアフリカに進出し、植民地獲得競争を繰り広げました。. アフリカが植民地にされたのって随分前だけど、エチオピアだけは1940年くらいまで独立を保ってたといいます。何故でしょう?一言でいえば、僻地だからです。意外に思われるかもしれませんが、スエズ運河が開通するまではヨーロッパからも 農村総合開発計画(rural integrated development plan) 3 工業化政策~輸入代替工業化(importsubtitution) ‚̐ì‚́H, ƒAƒtƒŠƒJ‚̃Tƒnƒ‰»”™‚ð’m‚낤FêŠ/‹CŒó/lŒû‚È‚Ç, ƒAƒtƒŠƒJ‚Å—L–¼‚ȃRƒ“ƒS–~’n‚Á‚Ä‚Ç‚ñ‚ȏꏊH“Á’¥‚È‚Ç, ‹ß‘ã“I‚È•Ší‚ªL‚­ŠgŽU‚µ‚Ä‚µ‚Ü‚¢’ïR‰^“®‚ð—}‚¦•t‚¯‚邱‚Æ‚ª—eˆÕ‚Å‚È‚­‚È‚Á‚½‚±‚Æ. アフリカが植民地にされていた理由は?. © 2021 Rekisiru All rights reserved. 19世紀までにヨーロッパ列強によるアフリカ分割が進み、植民地とされていたアフリカ各地で、第二次世界大戦後に独立運動が活発になり、1960年前後に一斉に独立を達成した。 アフリカの原住民の大半は黒人である。しかし、アフリカ北部の原住民は黒人だけとは限らない。アフリカ北部の住民には、古代や中世からアラブ系の人々やヨーロッパから移住した白人たちの子孫も多い。 「アフリカの原住民 → 黒人」(×)という先入観は、間違いである。 黒人が原住民の多くを占める地域は(アフリカ大陸の北部にある)サハラ砂漠(サハラさばく)より南の地域であり、このアフリカ南部の住民には今でも黒人が多く、「ブラックアフリカ」と言われる。 アフリカは、地域によっては … ネットでもって、いろいろと、アフリカが貧しい理由、アフリカが発展しない理由を書かれています(ここで言うアフリカは、基本的に、北アフリカや南アフリカを抜いた地域です)。ここで上げるのは、私の説です。 60年代、70年代の成長と内戦 一部のアフリカ地域は、成長した。 アフリカ植民地とは、18世紀後半から第一次大戦前にかけて、ヨーロッパ諸国が帝国主義のもとアフリカ諸国を植民地にしていったものです。. アフリカ分割(アフリカぶんかつ)とは、1880年代から第一次世界大戦前の1912年までにかけて、ヨーロッパの帝国主義列強によって激しく争われたアフリカ諸地域の支配権争奪と植民地化の過程のこと。 1912年にイタリアがリビアを獲得したことによって、リベリアとエチオピアを除くアフリカの全土がヨーロッパのわずか7か国によって分割支配された。